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石部神社と力石

神仏 静岡市 歴史民俗系

石部神社(せきべじんじゃ)は、静岡市駿河区石部に鎮座する神社。旧社格は村社。

境内に設置された説明板によると、祭神は天照大神、相殿に白髭神社猿田彦命)と山神社(大山祇命)、境内社津島神社(素盞嗚命)。天明元年(1781年)に再建されたことは判明しているが、創建時期は不詳。元は天伯社といい、明治初年に石部神社と改称した。明治8年(1875年)に村社となる。

石部(せきべ)の町は静岡市の西端海岸沿いにあり、焼津市との境をなす大崩海岸の入口近くに石部神社が鎮座する。

大崩を越える県道416号*1沿いにある一の鳥居をくぐり、民家と畑に挟まれた谷の底のような参道を奥に進んで二の鳥居を過ぎ、三の鳥居とその奥の木々が眼前に見えてくると、直前に鉄道線路が横たわっているのに気付く。踏切を渡って神前へと向かうのだ。

踏切を渡り三の鳥居をくぐると、木々に囲まれた社殿前の広場に出る。手前側の参道脇には灯籠や石造物が並び、左手の奥まったところに津島神社の小祠がある。太い木が何本か生えているが、どれも御神木ではないようだった。鳥居のまっすぐ奥に目を向けると木造瓦屋根の覆屋があり、その中に石部神社・白髭神社・山神社の本殿が納められている。

社殿前の広場は特別広いわけではないのだが、清々しく開けた明るい場所という印象を受けた。狭い参道を通ってきたことがその感を強めたのだろう。しかし、木々に囲まれた社殿前にいると海に近いという実感がわかない。鉄道と県道に間を隔てられてしまっているからだろうか。

社殿の背後には大崩から連なる山地が控えている。相殿の山神社といい、海辺の町にあるにもかかわらず、どちらかといえば山とのつながりが感じられる不思議な神社だった。

石部神社の力石

踏切を越えて三の鳥居をくぐってすぐの参道脇に、いくつかの石造物が安置されている。

社殿に向かって右手に、円形の台石に乗せられた一抱えほどの卵形の石と、その周囲にいくつかの割れた石材。

左手には、「猿田彦大神、大正拾四乙丑年弐月初庚申日建之、十五名」と刻まれた石碑、その手前足元に「力石」と刻まれた直径15cmほどの丸石、これらの後ろに大きな天然石でつくった手水鉢がある。

また、津島神社の前に、宝永7年に焼津湊の戸中某が寄進したと刻まれる石塔がある。これについては別ページで触れる予定。

猿田彦大神の石碑はこの近所の庚申講によって建立された庚申塔だろう。いっぽう、猿田彦大神の足元に供え物の饅頭のように置かれている「力石」というのがよくわからない。

力石とは、一般的には大きな石を担ぎ上げて力比べをすること、あるいはそれに用いた石を指す。石部近隣でも戦前に青年の娯楽として行われたことが『長田村誌』に書かれている*2。しかし、石部神社の「力石」は子供でも持ち上げられそうなサイズで、力比べには不向きだろう*3

野本寛一によれば、この「力石」は重軽石(おもかるいし)から力石への変遷をもの語るものなのだという*4。重軽石とは石を使う占いで、石を持ってみて軽ければ吉、重ければ凶であるという。ただし、石部の「力石」で実際に占いをしたという人はなく、どのように使ったのかよくわからないというのが本当のところのようだ。

私としては砲丸投げ説を提唱してみたい。これなら力比べになるし、下駄占いの要素を取り入れれば占いもできるし、そのうえ目の前には広い浜もあって場所にも困らない。できないことはなさそうでしょ。ただし現在の石部海岸は砂浜ではなく石がごろごろしているのだが。大崩を挟んで隣の焼津市浜当目海岸は今は砂利浜だが昔は砂浜だったという。石部はどうだったのだろうか。

猿田彦大神や「力石」の向かいに置かれている卵形の石は、『静岡の力石』によれば力比べに使った正真正銘の力石だそうだ*5。その台石になっているのは、石灯籠の基礎だったものらしい。周囲の割れた石材の中に石灯籠の破片らしきものがあった。また、参道反対側の説明板の下に対になるもう1基の基礎が埋もれている。

*1:2016年現在は一部に通行止め区間があり越えられない。通行止め解除は2017年3月の予定だそうな。

*2:長田村誌を復刻する会編『長田村誌 上・下巻』1974年、p.638(1912年編纂「長田村誌上・下」の復刻版)

*3:なお、現在は土台のコンクリートに固定されていて持ち上げることはできない。

*4:野本寛一『石の民俗』雄山閣出版〈日本の民俗学シリーズ1〉、1975年、pp.185-186

*5:高島慎助・雨宮清子『静岡の力石』岩田書院、2011年、p.38