笹間神楽と日本家屋の陶芸展 @ 島田市博物館

笹間神楽、須佐之男の舞

島田市博物館分館で「国際陶芸フェスティバル展」と笹間神楽を拝見してまいりました。もう展示終わってしまったけど、とてもいい雰囲気だったので、次回があるといいなと思いつつ感想文。

島田市山間部にある笹間にて開催された「ささま国際陶芸祭」。これにあわせて、島田市博物館分館の日本家屋に、陶芸祭招待作家の作品が展示されました。先日にも家族と見に来たのだけど、最終日の24日に笹間神楽が披露されるというので、ではもう一度見に行こうかしらと一人でお出掛けと相成った次第。

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牛の思い出と静岡市の130年と

静岡市文化財資料館企画展「カメラが写した静岡市130年 ~明治から令和へ~」の感想(後半ちょっと)と、うちの家族の思い出話(大半)の二本立てでお送りします。

50年近く前、昭和30年代半ばから40年代半ばにかけてのこと。うちの家族が通っていた静岡市の千代田小学校の校庭に、大量の牛馬がやってきた。それを皆で写生したのだという。なぜ牛馬が学校にやって来たのか、家族は知らなかった。

我が家族の姉であるところのおばが言うには、かつて校庭を埋め尽くした牛馬、それはおそらく注射のために集められたもの。近隣の牛馬の予防接種会場として千代田小学校の校庭が使われたのだろうという。

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葱と赤土と私

埼玉の葱畑

その昔、数年間だけ、埼玉に住んでいたことがある。東武東上線沿線。池袋まで準急で約1時間の某駅前のアパートで一人暮らし。

その町に引っ越す前は、ずっと静岡県中部の田んぼ地帯に住んでいた。旅行以外で田んぼの外に出たのはこれがはじめてだった。

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日本全土を旅する謎の巡礼「忘れられた大巡礼 ~六十六部日本廻国~」

2019年11月9日に焼津市文化会館において開催された小嶋博巳先生の講演「忘れられた大巡礼 ~六十六部日本廻国~」を聴講してきました。めっちゃ面白くあっという間の2時間弱でした。このような機会を得られるとは本当にありがたいことです。小嶋先生と関係された皆様に心から感謝いたします。

個人的には、六部説のある川中島八兵衛と絡めて、江戸時代の六十六部とは人々にとってどんな存在だったのかが最も知りたかった点でした。「忘れられた」と題されるとおり不明なことも多いようです。しかし、全国的にもお接待の記録が残り、流行神として祀られた例もありと、やはり六十六部というものは一定の尊敬を集める存在ではあったようです。

あと、江戸時代以降、かなりの数の六十六部が存在したという話。こう、あっちこっちに六部塚やら流れの行者の墓やらあるわけですが、通行が制限されていた江戸時代にそんな大量の巡礼者・行者が存在したのか?という疑問がありました。存在したんですねー。こっちから六十六部の旅に出た人だっているし、意外に人の行き来があったんですね。

焼津市歴史民俗資料館で開催されている企画展「巡礼の旅 ~廻国の行者と信仰~」も拝見。メインは本年度市文化財に指定された下小杉村の六十六部廻国関係資料。個人的目玉としては、小柳津に流れ着いた六部の三郎兵衛さんの遺した鉦鼓、チャンチャン婆さんの鉦!本物だ!すごーい。

まだ頭がぱんぱん状態で消化できておりませんがとりあえず以下メモ。内容は正確ではない可能性があります。

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江南信國が撮影した静岡の茶畑はどこにあったのか

たぶん静岡市の谷津山の南側斜面だろうと思うんですよ。今は宅地化されてる春日町3丁目10~19あたりだったのではないかと。

えーと、これら3枚の写真の話です。

MLS-5-J-045
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MLS-5-J-047

Enami - Tea Production | Flicker

幕末生まれの写真家、江南信國(1859年~1929年)による、静岡で茶が生産されるところを撮影した19枚の写真。数年前に「20世紀初頭に日本の茶摘みの様子を撮影した貴重なカラー写真いろいろ - DNA」で見て知った。

その中から、山の上の茶畑で茶摘み娘を撮影した3枚。ここに写る風景、この山の形、なんか見たおぼえがあるなと、どこなのかなと気になり続けて幾星霜。やっと確認する気を起こしたのだった。

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四郎兵衛地蔵メモ

藤枝市稲川の四郎兵衛地蔵

藤枝市稲川の瀬戸川沿い、旧国1(現県道381)瀬戸川橋のたもとで川沿いの道路を上流側に少し進んだところに、大量の石仏をおさめた小さなお堂があります。おさめられているのは、地蔵や馬頭観音、四角い石塔、五輪塔のようなもの、そして川中島八兵衛など。

たぶん、元はあちこちに点在していた石仏を、河川や道路の整備の際にここに集めたのかなーという雰囲気。前に見に行ったときにはお供えの花も美しく、よくお世話されている様子がうかがえました。

谷澤靖策*1によれば、このお地蔵さんは「四郎兵衛地蔵」というそうな。てっきり四郎兵衛さんを祀った地蔵があるのかと思ったのですが、現地を見るかぎりではどれがそれかわからない。それと、四郎兵衛さんとはどなたでしょう。

旧地形図を見ると、かつてこのあたりに「四郎兵衛」という小地名があったことがわかります*2。ということは、四郎兵衛地蔵とは、四郎兵衛地区で祀っている地蔵ということ?四郎兵衛さんを祀っているわけではないのでしょうか?

地名になっているということは、四郎兵衛さんはこのあたりを開発なさった方っぽいですが、もしかしたらなんらかの伝説があったりするのかもしれない。今度図書館行った時にもうちょい調べてみましょう。

*1:谷澤靖策『田中城の町 西益津史跡巡り ―過去・現在・未来―』(谷澤靖策スケッチ集)2019年、p.17

*2:静岡県地理情報システム 旧版地形図

山八つ谷九つ身は一つ我が行く末は柊の里

やまがやつ、たにがここのつ、みわひとつ、わがゆくすえわ、ひいらぎのさと

「山が八つ、谷が九つ、身は一つ、我が行く末は柊の里」

川中島八兵衛御詠歌二番の歌詞であり、お札にも書かれるこの文句。八兵衛の御利益のあらたかさを讃えるものである御詠歌のなかで、二番の歌詞だけが異色というか、どういう意味があるのかはっきりしません。いったい誰かどういう理由でどこの柊の里へ行くのでしょうか。

この文句は紙に書いて家の戸口に貼るとか、三回唱えるとかすると、疫病除けになるともいわれていたそうです*1。こうした扱いをみるに、意味のある文章というよりは、一種の呪文のようなものだったのかなという感じがします。

で、山が八つとか柊の里とかなんだろうということですが、これについては現在までのところ以下のような説が唱えられてきました。

*1:大房暁『山西の特殊信仰』(西駿曹洞宗史)久遠山成道寺、1961年、p.21

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