土用の丑の鰻と牛と胡瓜など

本日は土用の丑の日だったのだそうだが、藤枝の高洲だったか大洲だったか、ともかく藤枝市南部では、土用の丑の日に牛を食べたという話を前になんかで見た。なんだったっけかなー、『大洲村誌』か『高洲村政誌』のどっちかだった気がするんだけど。ともかく、丑の日なんだから牛を食べたほうが自然なかんじはする。

私は藤枝出身だが、土用の丑の日に行事食として牛を食べたことはない。鰻は何度か食べたおぼえがある。しかし、正月のおせちやクリスマスのケーキのように、その時期になったら必ずそれを食べたくなるようなものではなかった。

家族も土用の丑の日だからといってなにをするわけでもなかったし、記憶にあるかぎりでは近所の鮮魚店や料理店でも特に鰻を売り出したりはしなかった。どうも当時のあの地域では土用の丑の日の習慣自体が存在しなかったのかもしれない。

そもそも、当時は世間も今ほど丑の日だー鰻だーと大騒ぎしなかったと思う。うちの家族が言うには、鰻といえば専門店で調理済みのものをいただくのであって、そのへんのテキトウな店なんかでは扱っていなかったそうだ。当然ながら安いものではなかったし、むしろ今よりも入手困難な高嶺の花だったのではないか。

そういうわけで、土用の丑の日の鰻が全国的な習慣になったのって意外に最近なんじゃないかと疑ってるのだが、どっかに調べた人がいないかな。探したら見つかりそうだが、まぁ今後の課題ということで。

大正5年発行の『志太郡誌』によれば、当時の志太郡では、土用の丑の日には鰻にかぎらず川魚を獲って食べていたそうだ。戦前はそのへんの用水路でも鰻が獲れたと聞くので、鰻が入手困難だったがゆえの代用品が川魚だったというわけではないようだ。動物性たんぱく質をとりたいときに手軽に入手できるのが鰻を含む川魚だったということかもしれない。

なお、藤枝・焼津あたりでは、魚など動物を獲って食べることをセッショー(殺生)と言った。丑の日に川魚を「獲って食べる」というところに、なんか意味がありそうな気もする。とりあえずこれも今後の課題としておぼえておこう。

ところで、かつての志太郡下では、土用の期間中に魚食以外にもいくつか行事があったようだ。上掲『志太郡誌』によれば、土用入りの日には牡丹餅をつくって神仏に供え、3日目は土用三郎といってその日の気候からその年の収穫の吉凶を占ったという*1。牡丹餅を供えるとか、今ではまったく聞かない行事だ。

また、『浜当目の民俗』*2によれば、焼津市花沢の法華寺では、土用の丑の日に胃のまじないとしてお灸をすえる行事があったという。そのとき信徒はキュウリを持参するのだが、そのキュウリをどうしたのかは不明。おそらく他所で行われるきゅうり封じ・きゅうり加持などと似たような行事だったのだろう。

*1:土用三郎については「こよみのページ > 土用と稲穂」がわかりやすかった。

*2:焼津市総務部市史編さん室編『焼津市史民俗調査報告書第二集 浜当目の民俗』2003年、pp.34-35「他所へ行く機会」