日本全土を旅する謎の巡礼「忘れられた大巡礼 ~六十六部日本廻国~」

2019年11月9日に焼津市文化会館において開催された小嶋博巳先生の講演「忘れられた大巡礼 ~六十六部日本廻国~」を聴講してきました。めっちゃ面白くあっという間の2時間弱でした。このような機会を得られるとは本当にありがたいことです。小嶋先生と関係された皆様に心から感謝いたします。

個人的には、六部説のある川中島八兵衛と絡めて、江戸時代の六十六部とは人々にとってどんな存在だったのかが最も知りたかった点でした。「忘れられた」と題されるとおり不明なことも多いようです。しかし、全国的にもお接待の記録が残り、流行神として祀られた例もありと、やはり六十六部というものは一定の尊敬を集める存在ではあったようです。

あと、江戸時代以降、かなりの数の六十六部が存在したという話。こう、あっちこっちに六部塚やら流れの行者の墓やらあるわけですが、通行が制限されていた江戸時代にそんな大量の巡礼者・行者が存在したのか?という疑問がありました。存在したんですねー。こっちから六十六部の旅に出た人だっているし、意外に人の行き来があったんですね。

焼津市歴史民俗資料館で開催されている企画展「巡礼の旅 ~廻国の行者と信仰~」も拝見。メインは本年度市文化財に指定された下小杉村の六十六部廻国関係資料。個人的目玉としては、小柳津に流れ着いた六部の三郎兵衛さんの遺した鉦鼓、チャンチャン婆さんの鉦!本物だ!すごーい。

まだ頭がぱんぱん状態で消化できておりませんがとりあえず以下メモ。内容は正確ではない可能性があります。

下小杉村の3人の六十六部廻国の旅

江戸時代中期、宝永6年2月20日、西暦では1709年3月30日。遠江国榛原郡下小杉村の横山さん、谷澤さん、法月さんの3人は、連れだって六十六部日本廻国の旅に出た。

日本全国66ヶ国の社寺を参拝する巡礼の旅。3人はまず西の国々を廻り、いったん帰村した後、今度は東へ。宝永7年7月末までのあいだに、西は薩摩から東は陸奥まで訪れた。帰村時を除く正味9ヶ月間、納経帳に残る納経請取印は198ヶ所、別所での代判とした佐渡隠岐を除くと64ヶ国を廻った大急ぎの旅だった。

3人が巡礼で使用した道具が、平成31年度、焼津市指定文化財となった。着用した笠や笈、各国の社寺の納経請取印が記された納経帳、往来手形、六十六部廻国の縁起を記した書、旅の行程を記した旅宿記、などなど。これら六十六部廻国関係資料は、来年1月26日まで焼津市歴史民俗資料館で展示中。

納経帳は横山さんと谷澤さんのものが残っており、そこから廻国の旅程を知ることができた。横山さんの納経帳は3冊、谷澤さんは2冊。横山さんには秩父三十四所などを巡ったぶんの納経帳があるが、谷澤さんにはそれがない。谷澤さんは六十六部とは関係ない社寺では納経しなかったとも考えられる。

残っていない法月さんの納経帳はどうなったか不明。廻国供養塔の中に納経帳が収まっていた例があり、そのようにどこかに納められた可能性はあり得る。現在は御朱印帳や納経帳を納棺することがあるが、これはそんなに古い風習ではないかもしれない。

3人が廻国に出た動機はわからない。個人的な発願の可能性が考え得る。一般的な六十六部は、何らかの罪の意識からの贖罪の巡礼、金持ちの隠居の旅行、貧乏人が食い詰めて物乞いに、職業的な六十六部などがあるが、よくわかっていない。

下小杉の墓地に3人の戒名が入った廻国供養塔が残る。明治13年に再建したもの。銘には3人が廻国を終えた宝永7年の年号と「奉納大乗妙典日本廻国六十六部供養塔」の文字。廻国の道すがら巡った西国、秩父、四国、坂東の名も刻まれている。

下小杉墓地の廻国供養塔
下小杉の廻国供養塔(左)

六十六部とは

六十六部とは、もともとは日本全国66ヶ国のしかるべき社寺に法華経(大乗妙典)を奉納する巡礼だった。史料での初出は鎌倉時代。宗教者が実践する儀礼的なもの。

ところが、近世以降、阿弥陀信仰(念仏信仰)に傾斜していく様子がみえる。廻国供養塔に六字名号やキリークなどが刻まれ、念仏を唱える六十六部が現れる。いっぽう、法華経の奉納は必ずしも行われなくなっていた。

近世以降は廻国を行う者も様々。下小杉の3人のような庶民、女性、男女ペアの例も。江戸時代中期から後期にかけての廻国供養塔が多数存在、その大半は廻国成就記念の碑とみられる。そこから計算すると、年間数百人が廻国していたことになる。[参考 : 廻国供養塔データベース 五訂版改

また、六十六部に対して各地の住人が宿や食事などを施した記録も多数残る。廻国供養塔の中には、「千人宿」、「一万人供養成就」など、多数の廻国者を迎え入れたことを刻むものも。巡礼者に対する作善は本人の功徳になるという考えがあった。

このような施宿、施食が巡礼の旅を支えていた。六十六部の旅費もほとんどはお布施によって賄われた。こうした信仰心からくる好待遇は、明治以降、近代化によって失われ、六十六部廃絶の一因となった。現在では六十六部廻国を行う人はほぼいない。

六十六部には、四国八十八ヶ所西国三十三所のような定められた巡礼地がない。観音と縁を結ぶ、弘法大師ゆかりの地を巡るといった、巡礼の原理、ストーリーもみられない。六十六部は個々人の宗教的欲求にしたがい巡礼地をある程度自由に選択していた。聖地へ旅するのではなく、聖なる旅を実施するのが六十六部とも評価できる。

六十六部縁起からは、巡礼に応じて地上の支配権を獲得したというストーリーが読み取れる。六十六部の旅において関心がおかれていたのは、66ヶ国すべてをいかに網羅するかという点。六十六部の納経帳は、日本全土を廻り、全国の神仏と結縁した証し。[そういえばどこかで六部が納経帳を拝ませて布施を募るという話を読んだような。]

六十六部についてはわかっていないことも多い。17世紀に断絶の期間があること。断絶を挟む中世と近世では巡礼の様相が大きく異なること。近世以降の六十六部は誰がどのような動機で行っていたのか。職業的六十六部集団の存在、などなど。

職業的な六十六部集団。東叡山寛永寺御室仁和寺を本所とし活動。複数の廻国供養塔に名を残す、橋やお堂の造立に関わるなど、集団的に活動、六十六部を渡世とする。明治4年太政官布告第538号で禁止されたのはこのような職業的な六十六部。[同時期、普化宗明治4年太政官布告第558号)、修験道明治5年太政官布告第273号)なども禁止されている。]

焼津市域では他所からやって来た六部が定着した例が複数、大島の弥吉、小柳津の三郎兵衛、川中島八兵衛など。六部が信仰の対象、流行神になる例は全国にもあり。その一方で六部殺しなど、六部を恐れる、蔑視する向きも。様々な六部が存在したため、地元の対応も様々?

下小杉墓地天満宮裏の墓地
下小杉天満宮裏の墓地

下小杉宝永七寅年廻国供養塔下小杉□文□申年?廻国供養塔
下小杉の廻国供養塔(左1枚目が宝永7年のもの)

下小杉則心寺、紀伊之國名主八郎兵衛
近くの則心寺に川中島八兵衛の碑があります