葱と赤土と私

埼玉の葱畑

その昔、数年間だけ、埼玉に住んでいたことがある。東武東上線沿線。池袋まで準急で約1時間の某駅前のアパートで一人暮らし。

その町に引っ越す前は、ずっと静岡県中部の田んぼ地帯に住んでいた。旅行以外で田んぼの外に出たのはこれがはじめてだった。

静岡の田んぼ地帯は大変に見晴らしがよかった。田んぼの北の果てに壁のように連なる山々がある。その稜線の形を見れば、地図やナビがなくても、今いるだいたいの位置や方角がわかった。

対する埼玉。ここはランドマークに乏しい住宅街。視界は狭く、見える限りすべてが人の住み家。どっちに行ってもひたすら家、家、家。どっちが北でどっちが東か、どうしてもわからない。

住んでいるアパートへは駅のどっち口を降りるのか。いつものスーパーへはどう行けばいいのか。しょっちゅう混乱した。住んでいるあいだには結局おぼえられなかった。スマホも地図アプリもまだなかった時代の話。

とはいえ、駅前を離れれば人家の密度が薄まり、隙間に遠くがのぞきはじめる。道がほんのわずか上り坂になり、なだらかに起伏する丘陵地帯へと続く。そこに至れば、田んぼも畑もあるのだった。

見渡すと、この丘陵には圧倒的に畑が多い。道端にいきなり畑。土や植物が道路に少々はみ出している。静岡の田んぼ地帯では、農地はたいてい用水路に囲まれていて、ほかの区画とは隔てられているものだった。

そして、埼玉の畑は土が赤い。何度も見返したから気のせいではない。たしかに赤い。これはなんだろう。

静岡県中部田んぼ地帯の土は、基本的には灰色だった。この平野は大井川が北方の山々から運んだ土砂が堆積してできた。大井川の河原は灰色の丸石で埋め尽くされている。

春が来て田植えの時期になると、田んぼ地帯の川という川に灰色の水が流れ込む。大井川から引き込まれた土砂混じりの水。田んぼを囲む用水路も、家の前の側溝も、町はずれの小さな川も、すべて灰色。灰色の水を張った田んぼに白い鷺が降りる。春先のグレースケール平野。

対する埼玉の、この春の色彩たるや。赤い土を盛った上に、青い葱が列をつくっている。そのまわりに色とりどりの花。たくさんの、あふれんばかりの花。同じ農地でも、田んぼ地帯とはまったく景色が違う。

土地が違うとはこういうことなのか。田舎者は衝撃を受けた。そして、ここは関東平野なのだと遅まきながら気がついた。なるほど関東ローム層。赤土って本当に赤いんだな。

土地が違えば町も違った。一番近い酒屋がある狭い通りは、江戸時代には街道だったという。そこに並ぶ家の大きいこと。立派な門を構えた屋敷もあった。田んぼ地帯には門などというものは存在しなかった。

その通り沿いの、ごく普通の民家の庭先に置いた小屋が、夜になると赤提灯のともる焼鳥屋になった。そういう店が何軒かあった。ときどき、明かりのついた小屋の中から、賑やかな笑い声が聞こえた。酔っ払いが外で立小便しているところに出くわして、威嚇されたこともあった。

通りを曲がって細い路地に入ると、家に囲まれた裏に小さな林のような木立ちと畑があった。そこにはアパートの大家のおばあさんが世話する畑もあって、少しの野菜とたくさんの花を育てていた。たまに収穫物のお相伴にあずかった。この畑の土も赤かった。

畑のすみに小さな御幣が何本か立っていたことがあった。木立ちのなかで一番高い杉の木の下にお堂があって、格子戸のなかをのぞくと、金泥で化粧した白いお狐さんがいた。近くに神社や寺もあったが、祭りやお神輿は見たことがない。

木立ちと畑のある路地ではよく猫とすれ違った。住んでいたアパートには、キジトラの兄弟と、子猫を連れた牛柄のお母さん猫がよく来た。キジトラの弟のほうは、特によくなついていたが、半年ほどで見かけなくなった。

越してきた年の冬に、生まれてはじめての積雪を経験した。エアコンやこたつがなくては耐えられない気候があることを知った。極寒の流星群の夜、牛柄のお母さん猫と一緒に空を眺めたが、流れ星は見えなかった。お母さん猫のおなかが温かかった。夜空は灰色だった。

この春、久しぶりに町を訪ねた。今は再開発のまっさいちゅうだといい、現代的なコンパクトな家が増えて、大きな屋敷や木立ちは姿を消しつつある。大家のおばあさんの畑があった路地もなくなっていた。しかし、相変わらずちょっと道を曲がると葱畑があるし、その土は赤い。

住んでいた頃は知らなかったが、この町は台地の上にあるのだった。町はずれまで行けば、低地に広がる田んぼが見られたはず。そこはどんな色だったのだろう。春には見てくることができなかった。その田んぼは、先の台風で水没してしまったらしい。あれからどうなっただろうか。


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by リクルート住まいカンパニー