牛の思い出と静岡市の130年と
静岡市文化財資料館企画展「カメラが写した静岡市130年 ~明治から令和へ~」の感想(後半ちょっと)と、うちの家族の思い出話(大半)の二本立てでお送りします。
50年近く前、昭和30年代半ばから40年代半ばにかけてのこと。うちの家族が通っていた静岡市の千代田小学校の校庭に、大量の牛馬がやってきた。それを皆で写生したのだという。なぜ牛馬が学校にやって来たのか、家族は知らなかった。
我が家族の姉であるところのおばが言うには、かつて校庭を埋め尽くした牛馬、それはおそらく注射のために集められたもの。近隣の牛馬の予防接種会場として千代田小学校の校庭が使われたのだろうという。
おば曰く、その当時、昭和30年、40年頃までは、牛馬は近所で普通に見た。牛が田んぼを耕していたし、リヤカーを引くのに馬が使われていた。道を普通に牛馬が歩いていた。そんなに頻繁に見はしなかったが、けっして珍しいものではなかった。千代田小の近くには農協もあった。
あと、ロバが引くパン屋さんというものがやって来たそうな。なにそれ可愛い。
その頃は茅葺屋根の家もまだあった。我が家族の同級生に、家の石油ランプの煤掃除をやらされているという子がいた。養蚕や綿をやっている家もあって、自分の家で織った布でつくったという服を着てきた子がいた。家の敷地内に墓があって、まだ土葬をやっているという子もいた。
水道も井戸をつかっている家がけっこうあった。かまどは普通にどこのうちにもあるもので、家の外にかまどを置いていることが多く、おばのうちは家のなかにあるだけマシだった。おばと我が家族がそのような話を懐かしそうにしていた。
そういえば、おば家では長らく五右衛門風呂をつかっていて、私もそれに入ったことがある。薪で炊いたお湯は芯から熱く、子供のうちはつらかった。それで、うちの家族などは今でも熱い風呂が苦手だという。当たり前だが、薪を売っている店も近くにあった。切通しのところだったという。
50年も昔のこと。とはいえ、静岡市中心部、おまちはもうすっかり近代的な装いになっていた頃ではないか。当たり前にグラデーションがあるのだなぁと、静岡市文化財資料館企画展「カメラが写した静岡市130年 ~明治から令和へ~」を見ながら思ったのだった。
会場にはご年配の集団が何組か、たぶんデイサービスとかの仲間で来たのだろう。昔はこんなだったとか、お母さんが着物を着ていたとか、黒電話が懐かしいとか、楽しげにお話しをされていた。こういう賑やかさはいい。
うちの家族たちはあまり興味がないのか、誘っても来なかった。見ればいいのになぁ。静岡市に直接の思い出はあまりない私が見ても面白かった。写真がいい。オススメ。24日までやってるそうです。
【企画展】「カメラが写した静岡市130年~明治から令和へ~」
— 静岡市文化財資料館 (@shizubunkyo) 2019年9月7日
明治22年(1889)に「静岡市」が誕生してから130年。戦前~戦後~平成の大合併を経て現在に至る静岡市のあゆみを写真や資料で振り返ります。
(会期)令和元年10/12(土)~11/24(日)※月曜、祝日の翌平日は休館日#静岡市 #写真 pic.twitter.com/DvcSJ7CV5J