島田市博物館の刀剣展と赤羽刀

この前、島田市博物館で「音にきこゆる~島田の刀鍛冶と天下三名槍」展を見てきたよー。天下三名槍の展示が始まる前だったので、そんなに混んでなかった。なので、細工の細やかさとか、ゆっくりじっくり見られてよかったなー。

博物館にはボランティアの方や学芸員の方がいて、タイミングがいいと展示にまつわるお話をいろいろと聞かせてもらえます。私がうかがった時には刀の研ぎ師の方がいて、本職ならではの興味深いお話を聞かせていただきました。みんなも聞きに行くといいよ。

で、25日から天下三名槍、御手杵・蜻蛉切・日本号3本揃っての展示が始まっているのだ。静岡新聞によればめっちゃ大盛況で、女性客も多いようだ。

平成27年に佐野美術館の蜻蛉切初公開を見に行った時は、女性の姿はまだ少なかった。あれからずいぶん状況が変わったものだ。刀剣人気ってマジものになったんだなーと、なんかしみじみ嬉しいニュースであることよ。

島田市博物館の天下三名槍の展示は3月5日まで(2月27日は休館日)、刀剣展自体は3月26日まで開催。私、現在風邪ひいちゃっててアレなんですが、なんとか拝みに行きたいものです。

赤羽刀の話

私がボランティアの方からお聞きして印象に残ったのは、「赤羽刀(あかばねとう)」のお話。展示されている刀剣のうち、何本かの茎(なかご)に、白いペンキで3桁~4桁の漢数字が書き込まれているのです。これはなにか?ってお話です。

太平洋戦争終結後、GHQは日本の武装解除の一環として、日本国民が所有する一切の武器の接収を命じました。この武器には、個人が所有する先祖伝来の日本刀なども含まれていました。

接収された刀剣の多くが廃棄処分されてしまいましたが、一部は日本刀を愛する人々の尽力により救い出されました。この時、救出された刀剣が保管されていたのが、東京都北区赤羽にあった米陸軍第8軍兵器補給廠でした。これにちなんで、救出された刀剣を「赤羽刀」と呼ぶようになりました。

赤羽刀のうち、元の所有者が判明して無事返還されたものは2割ほど、残りの大半が所有者不明で、東京国立博物館で保管されたままになっていました。これを公立博物館などに譲与し、一般公開して活用をはかることになったのが1999年(平成11年)のこと。島田市博物館では4振りの赤羽刀を譲り受けました。

茎に白いペンキで数字を書き込んであるのが、赤羽刀です。この数字は、赤羽刀を国立博物館で保管するにあたって割り振った管理番号なのだそうです。美しい日本刀にペンキの書き込みは無粋で不釣り合いですが、刀が辿った歴史を伝える痕跡だと思うと、なんかぐっとくるものがあります。

興味深いお話を聞かせてくださった博物館ボランティアの方に改めて感謝です。

関連リンク

  • 島田市博物館
  • 古川元也「当館所蔵の赤羽刀-コレクション展『蘇る名刀』展によせて」『神奈川県立歴史博物館だより』Vol.17 No.3、神奈川県立歴史博物館、2011年(PDF

「志太の石碑・石仏めぐり」更新 2017年1月31日分

花粉飛び始めちゃったよね……そんな憂鬱な1月の終わりにお送りする藤枝市内瀬戸の川中島八兵衛さん2件。

内瀬戸・延命寺の庚申塔の八兵衛碑

2017年1月31日
公開:川中島八兵衛「内瀬戸・某自動車販売店の八兵衛碑」(藤枝市内瀬戸)
公開:川中島八兵衛「内瀬戸・延命寺の庚申塔の八兵衛碑」(藤枝市内瀬戸)

私が知ってるかぎりでは、内瀬戸ではこの2件の八兵衛さんしか発見されていない。で、その2件ともが、他とは異なるおもしろい事情を持っているわけです。なぜなんでしょうねー。興味深い。

「志太の石碑・石仏めぐり」更新 2016年12月12日分

3ヶ月も更新をさぼってしまった。今月から本気出す。ということで、藤枝市高柳の川中島八兵衛3本立てです。

巾溝の八兵衛さんがあるところ
2016年12月12日
公開:川中島八兵衛「高柳・大渕の紀伊國川中嶋小長谷八兵衛碑」(藤枝市高柳)
公開:川中島八兵衛「高柳・仁平の西国川中島八兵衛」(藤枝市高柳)
公開:川中島八兵衛「高柳・巾溝の西国川中島八兵衛」(藤枝市高柳)

あと、Picasa終了に伴うリンク切れをじわじわと直しているところ。なにしろ写真UPしなおさなきゃならないので全部直るまでにはまだしばらくかかる予定だけど、じわじわとがんばるぞー。

高洲地区の川中島八兵衛メモ

藤枝市高柳、巾溝組の「西国川中島八兵衛」は、高洲小学校南側の畑脇に移されていた。増田文具店の南側。旧地は現在地より270mほど北、杉本工業西側の用水(七ツ溝川)沿い。

同じく藤枝市高柳、仁平組の「西国川中島八兵衛」は、平成11年に再建された新しいもの。各種資料に記録された旧碑は現存しないようだ。そばにあったはずの秋葉山常夜灯もなくなっている。気がかりである。

高洲公民館の図書室に、高洲地区郷土の歴史愛好会*1が作成した資料が収められている。そのうち、『郷土の歴史愛好会(1)』と『ふるさとの歴史資料2』に川中島八兵衛に関する資料あり。特に前者収録の「川中島八兵衛の研究」は高洲地区内で祀られる八兵衛の記録があり必読。

『ふるさとの歴史資料2』「川中島の八兵衛さんについて」内に、「63.6.17」と添え書きされた新聞記事のコピーあり。大井川町史編纂をきっかけに八兵衛の出身地探しが行われたその結果を報じるもの。島田市博物館で展示されていた記事のコピーと同じものであり、川村辰巳が見たという「八兵衛さんに関した記事」と思われる*2島田市博物館では静岡新聞の記事としていたが、河村は読売新聞としている。とりあえず県立中央図書館まで確認しに行ってみよう。

高柳・巾溝の「西国川中島八兵衛」

*1:現在の正式名称は高洲地区郷土歴史愛好会かも?資料によって表記揺れがある。

*2:川村辰己『川中島八兵衛見聞の記所在地一覧』p.1

本中根の八兵衛碑は川中島八兵衛の埋葬墓ではなさそう

川中島八兵衛は、静岡県中部のごく一部、おおむね志太地区内のみで、病除けや災害除けの御利益があると信仰されていた人物だ。現在はほとんど廃れてしまった信仰だが、かつて建てられた供養塔(八兵衛碑)が各地に残されている。

この八兵衛という人物に関して、生前の記録は全く見つかっておらず、伝承としてもはっきりした情報は残されていない。いつの時代に生きてどこで死んだのかも判明しておらず、実在した人物だということすら確実ではない。

ところが、『大井川町史』下巻によれば、八兵衛が埋葬された墓は、焼津市本中根にあった古い八兵衛碑だったと推定されるという。現在、本中根には昭和48年(1973年)に再建された八兵衛碑があるが、これの先代の碑のことだ。

正体不明の人物とされている川中島八兵衛の、その遺体が埋葬された墓が見つかったとなれば、これはもう大変なことだ。それは、八兵衛という人物が志太の地に実在したという、間違いのない証拠が発見されたということなのだから。

ところが、いろいろ調べてみたら、『大井川町史』の説はなんだかちょっと怪しかった。なので、僭越ながらツッコミを入れたく存じます。よろしくお願いします。

本中根の八兵衛碑の写真

焼津市本中根の現在の八兵衛碑

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三輪の石畳道(追記有り)

取り急ぎメモとして、岡部街道(現県道213号高草街道)開通以前に高草山南麓を東西につないでいたとおぼしき「三輪の石畳道」について。あとで加筆修正予定、地図とか画像も追加するかもー。

* 2016-09-23 昼 追記「東海道・石畳道分岐点の神神社道標」「石畳道の今とこしかた」

かつて、現藤枝市横内で旧東海道を東へ分岐し、同市岡部町三輪の神神社(みわじんじゃ)へと至る石畳敷きの道があったという。

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三輪の天神社前の石畳道

旧東海道藤枝市横内地内では県道81号になっている。石畳道の分岐点は横内531の北西角。ここから敷地の北側を通って県道381号(現東海道)まで続く小道が石畳道の残存部らしい。昭和54年ごろにはこの分岐点に「延喜式内正二位神々社従是里程」と刻んだ高さ2mほどの道標があったというが、現存しないもよう。*1

道は白髭神社の南側を通り、横内と岡部町三輪の境にある天神社の南方を通過したところで北と東へ分岐する*2。分岐を北へ向かうと神神社前に至る。この区間の道は区画整理等のために完全に消滅した。ただ、現在、天神社北側の道路がごくわずかな区間だけ石畳舗装になっているのは、かつての石畳道に由来するものなのではなかろうか。天神社境内におかべプロジェクト未来が設置した説明看板にも石畳道がちょろっと登場している。

石畳が敷かれていたのは横内の白髭神社から三輪のあいだで、地元三輪で産出する三輪石を短冊形に切ったものが使われていたという。道の交通量は多かったようで、石畳は大八車の轍跡が刻まれてくぼんでいたそうだ。岡部街道*3が大正5年に開通する前は、この石畳道が高草山南麓を東西につないでいたのだろう。*4

なお、天神社南方分岐点で石畳道から分かれて東へ進むと、吐呂川を渡って見田塚(犬頭塚とも、現焼津病院付近)の南側を通り、現焼津市策牛の智勝神社前に出た。この先の詳細な経路は不明だが、坂本の宇峠や浜当目の青木森*5付近を通って浜当目の海岸まで到る道があったらしい。浜当目や石脇の人々はこの道をションバミチ(塩売道)と呼んでいたそうで、かつて浜当目で盛んだった製塩業の人が塩を売るために通ったのだという。*6

*1:静岡県教育委員会文化課編『静岡県歴史の道 東海道』1994年(昭和54年に発行されたものの復刻改訂版)

*2:道路の経路については大日本帝国陸地測量部明治22年測量2万正式図「宇津谷」・「藤枝町」など参照のこと。こっちの五万分一地形図でもOK。

*3:高草街道とも、現県道213号。

*4:塩沢藤雄『高草山麓のむかし話』第四話、1985年

*5:青木森は現サッポロビール静岡工場のビオトープがあるあたりにあった。敷地南側の道路から見える位置に跡地の碑あり。

*6:塩沢藤雄、1985年

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「志太の石碑・石仏めぐり」更新 2016年8月分

なかば川中島八兵衛紹介サイトと化している「志太の石碑・石仏めぐり」ですが、今月も八兵衛さん推しです。川中島八兵衛御詠歌の写本をゲットしましたので、ご紹介していますよ。ぜひごらんください。

なお、今月更新分からページをHTML5+CSS3で作成しています。なんか不具合が生じていないか非常に不安です。お気づきの点がありましたらご連絡いただけると幸いです……。

川中島八兵衛御詠歌写本
2016年8月28日
公開:川中島八兵衛「明治39年の御詠歌写本
2016年8月21日
公開:焼津地名碑「小川新町(左口)」(焼津市小川新町)
更新:焼津地名碑「小川新町(堰)」建立時期訂正、誤「1987年(昭和62年)10月」 → 正「1985年(昭和60年)10月」。解説文改訂。
2016年8月7日
公開:川中島八兵衛「築地の紀伊[国川中?]嶋小長谷八兵衛」(藤枝市築地)
公開:川中島八兵衛「築地上の紀伊國川中嶋小長谷八兵衛墓」(藤枝市小石川町
更新:川中島八兵衛「下青島・追分の紀伊国川中島小長谷八兵衛之碑」(藤枝市下青島)