山中共古『土俗談語』から川中島八兵衛
山中共古『土俗談語』を読みました。今年のはじめくらいに……。年の暮れも見えてきた今、ようやく感想文を書こうというわけです。
山中共古『土俗談語』1899年(明治32年)、早稲田大学図書館蔵
こちら筆書き崩し字。読めないことはないがむつかしい。というわけで、図書館で青裳堂書店『山中共古全集』2巻を借りて活字化されたものも併せて読みました。
著者の山中共古は、明治大正期のキリスト教伝道者で、民俗学の先駆者としても知られる。徳川慶喜とともに駿府に移住した幕臣の一人であり、静岡とも所縁が深い。
『土俗談語』は、その著者が見聞きした民俗覚書とでもいうべき書物で、その当時の各地の風俗、神仏や祭事、また子守歌や方言なども収録されている。要所要所に挿絵も挟まれており、読者の理解を助け、目を楽しませる。
なにしろ楽しい本でした。基本、メモのような短い簡単な文章がずらっと並ぶのですが、気楽に読めて観光カタログ眺めるような楽しさがある。書かれたものについて、これは今、現地に残っているのかしらという興味もわきます。
で、このなかに「川中島八兵衛」に触れた箇所があります。早稲田大学図書館蔵版の場合、8コマ目。全集では12ページ。内容を以下に引用します。
紀伊国川中嶋八兵衛墓といふ墓石
諸所にあり何人なるや
これに添えて、「紀伊國川中嶋八兵衛墓」と銘を刻んだ「墓石」のスケッチあり。
非常に短い文章ですが、本書が編まれた時期を知って私はおもむろに興奮しました。「序」の日付が「明治己亥歳十月」、すなわち明治32年10月。明治時代以前の八兵衛に関する史料は、墓石こと八兵衛碑以外には、御詠歌の写本やお札が数点残っているくらい。明治時代に編まれた資料となると、これは貴重です。
そして、これを編んだのが、信仰地域の外の人物だったこと。志太(及び遠州)という一地方での民間信仰が、明治後期までには、他地域の人にも知られていたわけです。その人物はその方面に興味が高く、近隣在住の経験もありとはいえ。
八兵衛碑の建立時期の分布をみるに、明治時代は八兵衛信仰が盛んだった時期です。近隣にその噂が広まっていても不思議ではありません。なんなら拝みに来る人がいたってよいではありませんか。事実、詳しい経緯は不明ながら、焼津市一色免無の八兵衛碑が昭和8年に再建されたとき、静岡市在住の人が関わったという話があります*1。
というのは話が飛躍しすぎとしても、ここに一つ明治の人による記録があるのだから、探せばもっと何か出てくるかもしれない。なにしろ信仰は盛んだったのですから。そのような希望は持てるのではないかと思ったのでした。
次に内容を見ていくと、まず目に付くのが「墓石」の画。「紀伊國川中嶋八兵衛墓」の銘入りの角柱状の石碑。今、これとまったく同じ八兵衛碑は見あたりません。筆者共古はこれを実際に見たのでしょうか。いったいどこに置かれていたものだったのでしょう。
で、このような墓石が、「駿州志太郡辺及遠州にもあり」と。あまり厳密に捉えるべき内容ではないとは思うのですが、この書き方をみるに、共古が把握していた主たる墓石分布地は志太郡だったようです。これは現在確認できる八兵衛碑の分布とも一致します。
いっぽう、遠州「にも」ある。これはどこだったのでしょう。現在確認できる限りでは、島田市初倉地区、旧遠江国榛原郡初倉村に2ヶ所。あるいは、旧大井川町一帯は、明治12年以前には同じく榛原郡に属していました。これも含めると、合計10ヶ所くらいにはなります。このように、実際、遠州にも八兵衛碑はあるわけですが。
まぁ、駿州では郡まで指定しているのに遠州はそうではない、つまり、遠州のほうにもあるらしいよーくらいのあいまいな情報とは思われるのですけれども。しかし、こう、旧大井川町を遠州に含めるのは水増しっぽい気もするし、当時は大井川の西側にももっとたくさんの八兵衛碑があったのでは?と勘ぐりたくなってしまいますね。
それにしても、ここで取り上げられているのは、あくまで川中島八兵衛の「墓石」です。誰がなんのために建てた墓なのか、どのような信仰があったのかについては触れられていません。そして、墓の主である八兵衛については、「何人なるや」。信仰の盛んだった時代、共古のような興味の高い人物をして、八兵衛が何者か知れなかったというわけです。
単に聞きそびれただけの可能性もありますが、どうなんでしょう。これ以降、八兵衛について、誰も確たる情報を得られないまま現在に至っています。その名前と「墓石」の存在は、明治の末には他所の人物にも知られる程度には広まっていたらしいのに。
これはやはり、早い時期に情報が失われていたのでは?資料を見る限りでは、信仰者たちがあえて秘していた可能性は低そうです。個人的には、そも当時の八兵衛を祀る人たちは、八兵衛は何者かについて重視していなかった、もしくは現代人とは観点が異なったのではないかと思っているのですが。実際のところはどんなだったのでしょう。
とはいえ、あまりに深読みしすぎは危険。ここにあるのはたった41字のメモめいた文章。想像の翼を広げるにも節度を持てという話です。とりあえず、明治時代に川中島八兵衛の存在を書き残した人がいた。その事実を川中島八兵衛資料一覧に刻んでおきましょう。
以上、読書感想文でした。