天皇神社と御所松
ついこのあいだ天皇陛下が御即位されたわけですが、そういえば近所に天皇にまつわるスポットがあったなということで、行ってきたという日記です。
境内の由緒碑によると、祭神は後醍醐天皇。文政5年(1822年、江戸時代後期)9月16日に創建したとの棟札が残るが、それ以前からこの地の産土神として祀られてきたものと推測されるそうです。*1
現在は蔵王神社、津島神社、稲荷神社が合祀されているとのこと。
拝殿の奥に覆屋に守られた本殿があり、そこに後醍醐天皇と蔵王権現が祀られています。
本殿向かって右側に小社。津島神社、稲荷神社、秋葉神社を祀っています。
拝殿前の気になる丸いやつ。いわゆる力石として若者たちの力比べに使われていたものだそう。この日はお賽銭をたくさんもらっていました。
私見ですが、この石、年々ご神体っぽさを得つつありすごい。そのうちなんらかの御利益を発揮しそうです。
神社の説明などを記した由緒碑は、拝殿より一段下、拝殿に向かって右手の木陰にあります。
ついでに、入口まで戻って鳥居を出て、お隣の第5コミュニティ防災センターとの境のあたりに、この付近の旧地名を記した地名碑があります。神社に関係した地名も出てくるから、ちょこっと見ておくとよいです。*2
由緒碑の内容を見てみましょう。祭神や創建時期などは先に述べたとおり。
では、なぜ後醍醐天皇を祀っているのかというと、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子が駿河国を訪れた際、この地に舟を着けたという伝承があるのだそうな。それを縁として後醍醐天皇を祀り、また舟を着けたところを御所松と呼んだと。
御所松の地名は、旧地名碑によれば現在の駅北5丁目にあったそう。駅北5丁目というと天皇神社がある場所がまさにそうなんですが、ここから少しだけ離れた瀬戸川の堤防に、由緒ありげな松の木が2本生えております。
以前はこの2本の松の根本に「御所松」の立札が出ていたのだが、今回見に行ったらなくなっていました。*3
そのかわりというか、堤防下の民家に御所松の説明版が設置されています。もしや立札を作ってくださったのもこちらのお家の方でしょうか。ありがとうございます。
南朝の皇子云々というのは、興国5年(康永3年、西暦1344年)ごろ、後醍醐天皇の孫である興良親王が南朝方武将狩野貞長を頼り駿河国安部城に渡ったという出来事に基づく伝承のようです。ただし、狩野貞長が迎えたのは、一般的には興良親王と宗良親王とされるが、由緒碑の伝承では宗良親王と懐良親王となっています。
なお、江戸時代の地誌によれば、当時の天皇神社は天王社と称し、土地の人が語るには昔は後醍醐天皇を祀っていたが今は牛頭天王といっているとのこと。テンノウつながりで混同されたのでしょうか。*4
また、御所松については、徳川家康ゆかりの地との伝承があったともいいます。この時代には逆に南朝にまつわる伝承は採録されていないようなのですね。*5
もっとも、当時にしても、本来の祭神は後醍醐天皇であると認識されてはいたわけです。また、同じ村内で祀る蔵王権現は、南朝根拠地でもあった吉野に祀られる仏です。このことから、蔵王権現をも南朝に関連付ける意見もあります。*6
きっと長い歴史の中で様々な変遷を経て今の姿があるんでしょう。戦後には区画整理で境内の移転も経験し、現在の社殿が完成したのは昭和44年(1969年)のことだそうです。
移転前の所在地は、旧地名では丸田、現在の駅北2丁目。歴代空中写真を見るに、セブンイレブン焼津駅北店付近だったらしいですよ。*7
以上です。
*1:個別「[石碑][神仏][神社] 天皇神社由緒碑」の写真、画像 - frogcroaks's fotolife
*3:個別「[神仏][神社][植物] 御所松(赤松)(黒松)」の写真、画像 - frogcroaks's fotolife
*4:新庄道雄『修訂駿河国新風土記』第8輯(庵原、益津)、足立鍬太郎校訂、志豆波多会、1934年 六二丁左 国立国会図書館デジタルコレクション
*5:中村高平『駿河志料』第一編、静岡郷土研究会、1930年 百九十一丁右 国立国会図書館デジタルコレクション
*6:桑原藤泰『駿河記』上巻、足立鍬太郎校訂、加藤弘造出版、1932年 pp.445-446 国立国会図書館デジタルコレクション