かえるのうちに

志太の地をよろよろと彷徨するカエルがかえるうち

本中根の八兵衛碑は川中島八兵衛の埋葬墓ではなさそう

川中島八兵衛は、静岡県中部のごく一部、おおむね志太地区内のみで、病除けや災害除けの御利益があると信仰されていた人物だ。現在はほとんど廃れてしまった信仰だが、かつて建てられた供養塔(八兵衛碑)が各地に残されている。

この八兵衛という人物に関して、生前の記録は全く見つかっておらず、伝承としてもはっきりした情報は残されていない。いつの時代に生きてどこで死んだのかも判明しておらず、実在した人物だということすら確実ではない。

ところが、『大井川町史』下巻によれば、八兵衛が埋葬された墓は、焼津市本中根にあった古い八兵衛碑だったと推定されるという。現在、本中根には昭和48年(1973年)に再建された八兵衛碑があるが、これの先代の碑のことだ。

正体不明の人物とされている川中島八兵衛の、その遺体が埋葬された墓が見つかったとなれば、これはもう大変なことだ。それは、八兵衛という人物が志太の地に実在したという、間違いのない証拠が発見されたということなのだから。

ところが、いろいろ調べてみたら、『大井川町史』の説はなんだかちょっと怪しかった。なので、僭越ながらツッコミを入れたく存じます。よろしくお願いします。

本中根の八兵衛碑の写真

焼津市本中根の現在の八兵衛碑

情報整理

まず最初に、『大井川町史』下巻が本中根の旧八兵衛碑を八兵衛の埋葬墓と説明する部分を引用する。引用するにあたって漢数字を英数字に変換した。[大かっこ]内は筆者注。

本中根の国道150号ガード下の八兵衛碑には「紀伊国河中島小長谷八兵衛之塚」とある。もっともこの碑は昭和48年(1973)再建されたものである。塚とは死者を埋葬した所を指し、元は木屋川べりの塢[ルビ:ぼた]に小碑があったが折損してしまい、土地改良後現在地に再建したといい、この小碑がもともとの墓と推定され、旧地の大字大島の小長谷家に入婿したものと見られる。前表にある各所のその他の墓とあるのはすべて供養墓とみて間違いなかろう。

大井川町史編纂委員会編『大井川町史』下巻、1992年、pp.817-818

つぎに、本中根の八兵衛碑の来歴を軽くまとめておこう。

『本中根の民俗』*1によれば、本中根の八兵衛碑は、最初はどこかの畑の中に置かれ、次に木屋川の土手に移され、その後さらに現在の栃山川近くの場所に移された。

このなかで、木屋川土手にあった碑は、現在の碑の先代にあたる旧碑で間違いなかろう。だが、畑の中に置いてあった碑がそれと同じものとはかぎらず、さらに古い碑があった可能性はありえる。また、『大富村史』*2によれば、同書が編纂された昭和29年(1954年)時点では、碑は「木屋川北側」にあったという。これが畑の中なのか土手なのかはわからないが、いずれにせよ、かつて碑が置かれていた場所は現在の碑の所在地より北寄りにあったものと考えられる。

現在の碑は、その銘によれば、昭和48年(1973年)に本中根村によって再建された。所在地は本中根南端を流れる栃山川のほど近くで、旧地に寄り添っていた木屋川からは遠く離れてしまった。上に引用した『大井川町史』の記述をみるに、この移転には土地改良事業が影響していたらしい。なお、折損してしまったという旧碑は現存しないらしく、少なくとも現碑の周辺には見あたらなかった。

この本中根の八兵衛碑に関して、ここが八兵衛の埋葬地だと伝える記録や伝承は確認できない。そのように主張しているのは『大井川町史』だけだが、上の引用文を読めばわかるとおり、同書にしても確たる証拠を発見できたとは述べていない。私が知る限りでは本中根の人々がそのように信じていたという話も聞かず、おそらく地元ではこの八兵衛碑が特別なものとは考えていないのではないか。

本中根の土地改良

本中根の地図

OpenStreetMapを使用して、国土地理院空中写真USA-M85A-6-126を参考に作成。ライセンス:CC BY-SA

焼津市本中根、旧志太郡大富村本中根。大富村はタンボナカと呼ばれた志太平野中央部の水田地帯で*3、本中根はこの南部中央寄りに位置する。地内を木屋川・栃山川が流れており、かつては豊富な水を利用して稲作や養鰻業が営まれていた*4。戦後に入って宅地化が進んだが、現在はまだ随所に農村風景の断片を見ることができる。

『本中根の民俗』*5によれば、本中根は本田・新田・下河原の3つの地区に分かれる。このうち、栃山川旧流路沿いに南に突き出している下河原は、古くは大島に属していたが、昭和22年(1946年)ごろに本中根に編入した。残りのうち、本田は木屋川旧流路を境に南側にあり、北側が新田だった。

昭和24年(1949年)土地改良法公布以来、志太郡下でも農地改良を目的とする大規模な再開発が盛んに行われた。本中根周辺では、昭和31年(1956年)から昭和41年(1966年)にかけて「県営木屋川改修事業」と「焼津市南部土地改良事業」が実施されている*6。曲がりくねって流れていた木屋川の流路をまっすぐに改修し、あわせて区画整理や土壌改良が実施され、一帯の風景は大きく変化した。

本中根地内の木屋川が改修されたのは、昭和34年(1959年)から昭和37年(1962年)にかけてのことだという*7。この改修工事によって、もとは本中根のほぼ中央を横断していた流路が、北端を流れるように付け替えられた。さらに昭和59年(1984年)から昭和61年(1986年)にかけて栃山川の改修が行われ*8、これをもってほぼ現在と同じ本中根の町並みが完成した。

焼津市誌』が記録した本中根の明治13年の碑

木屋川一帯の土地改良が完了したのが昭和41年だから、本中根の現在の八兵衛碑が再建された昭和48年まではやや期間が開いている。どうやらこの間、一代前の碑が本中根のどこかに置かれていたらしいことが、『焼津市誌』下巻に書かれている。その部分を以下に引用する。引用するにあたって漢数字を英数字に変換した。[大かっこ]内は筆者注。

焼津市内の八兵衛碑の内で]年紀の古いものには本中根の国道150線わきの川傍に「明治一三年辰七月 □[ルビ:欠字]中嶋小長谷八兵衛 村中安全」というのがある。

焼津市誌編纂委員会編『焼津市誌』下巻、1971年、p.679

この記録により、明治13年(1880年)7月に建てられた碑が、昭和46年(1971年)ごろまでは本中根の国道150号わきの「川傍」に残っていたことが確認できる。ところで、土地改良以降、本中根地内では木屋川と国道150号は交差していない。では、この「川傍」はどこだったのか。

ひとつの可能性として、木屋川旧流路跡にそのまま旧碑が残されていたことが考えられる。国道150号の本中根歩道橋がある交差点付近が該当し、現在はここでコンクリートの水路が国道を横断している。あるいは、すでに現在の碑の設置場所に移されていた可能性も考えられるだろう。現在の碑の前にも用水路は流れている。

先述『本中根の民俗』のとおりであれば、本中根の八兵衛碑の移転は二度だったはずだ。私個人の推測では現碑所在地が「川傍」だったのではないかと思うのだが、断定できるほどの材料はない。

ただ、ともあれ、本中根の旧碑が土地改良後にも存在していたことは確かだ。そして、かつて木屋川の土手にあったのは、明治13年に建立された碑だったのだ。

大井川町史』説の検討

大井川町史』が八兵衛の埋葬墓と推定した本中根の先代の小碑は、「木屋川べりの塢(ぼた)」にあったという。ボタとは、志太平野一帯では、周囲よりもわずかに土地が盛り上がっている場所のことを指す。自然にできた微高地や河川の土手、田畑を作った際に出た石を捨てた場所などもボタと呼ばれた*9。すなわち、「木屋川べりの塢(ぼた)」とは、木屋川沿いの土手のような場所と考えられる。

この木屋川べりにあった旧碑は、『本中根の民俗』にいう木屋川の土手にあった碑であり、『焼津市誌』が記録した川傍の碑と同じものだろう。旧碑には『焼津市誌』時点でも欠字があるなど老朽化していた様子がみられるが、その後さらに破損が進んで現碑の再建に至ったという経緯が想像される。

ところで、『焼津市誌』が記録した川傍の碑は、明治13年に建立されたものだ。建立年代が江戸時代末期にさかのぼるものもある八兵衛碑のなかでは、特に古いものではない。なぜこれが八兵衛の埋葬墓になるのだろう。また、本中根の八兵衛碑は、最初は畑の中に置かれていたのだ。仮に本中根が八兵衛の埋葬地だとしても、それは木屋川沿いのボタではなく、畑の中なのではないか。

そもそも、『大井川町史』は、何を根拠に本中根の旧碑を八兵衛の埋葬墓と推定したのだろうか。私が読んだかぎりでは、昭和48年に再建された現碑の銘に「塚」の文字があるからとしか読み取れなかった。

たしかに「塚」には「死者を埋葬した所」という意味があり、この文字を使っている八兵衛碑は本中根以外にはない。しかし、ほかのいくつかの八兵衛碑*10で使われている「墓」の字にだって、それと同じ意味がある。まさか「塚」が一つしかないから本物というわけではあるまい。それに、『焼津市誌』が記録した旧碑の銘には「塚」の字がなかった。

また、『大井川町史』のいう「旧地の大字大島の小長谷家に入婿した」という部分にも疑問がある。素直に読めば、大字大島というのは現焼津市大島のことであり、本中根の八兵衛碑はかつては隣村の大島に置かれていて、八兵衛はその近くで暮らしていたということになる。しかし、『大井川町史』以外にそのような説を述べた資料は見つからない。

『本中根の民俗』によれば、本中根の八兵衛碑を祀っているのは本田地区の人々で*11、法要の際には本中根の檀那寺である泰善寺から住職がやってくる*12。現在の碑にも「本中根村」とあるとおり、本中根の八兵衛碑は本中根の人々が建てて祀ってきたものだ。この碑が村境を越えた大島に置かれていたとは考え難い。

さらに、「大島の小長谷家に入婿」という部分については、どうしてそのような説が出てきたのかまったく不明だ。この件については話が長くなるので別頁にて説明する予定だが、少なくとも旧大富村内には八兵衛がどこそこの家に婿に入ったなどという話は確認できない。仮に八兵衛が大島で亡くなったのだとしても、大島にも八兵衛碑は祀られているのに、なぜ本中根の碑のほうが八兵衛の埋葬墓である可能性が高いといえるのだろう。

私が重大な読み落としをしているのかもしれないが、現状では『大井川町史』が主張する「本中根の旧八兵衛碑が八兵衛を埋葬した墓」という説は根拠が薄いと考えざるを得ない。この著者は何をもって「各所のその他の墓とあるのはすべて供養墓とみて間違いなかろう」とまで言い切れたのだろう。何か書き忘れた情報があるのではなかろうか。

なお、「旧地の大字大島」について、私は一つの仮説を思い付いたので、一応ここに書き留めておく。それは、「小字大嶋」を取り違えたのではないかというものだ。上掲地図にも書いたとおり、本中根地内には「大嶋」という小字があった*13。木屋川旧流路の北側ではあるが、それにしてもちょっと離れすぎている……ものの、本中根の八兵衛碑が最初に置かれた「畑の中」には当てはまるかもしれない。

もしも私の思い付きが当たっていれば、本中根の八兵衛碑が最初に置かれた場所がだいたい特定できたことになる。当たっていればだが。さすがになさそうかなー。それにしても、実際のところ『大井川町史』がいう「旧地大島」や「小長谷家に入婿」という情報はどこから出てきたのだろう。誰か知ってる人がいないかなー。

主要参考文献

*1:焼津市総務部市史編さん室(2006年、p.55)

*2:大富村(1981年、p.204)

*3:焼津市総務部市史編さん室(2006年、p.3)

*4:同上(p.4)

*5:同上(p.58)

*6:同上(pp.90-91)

*7:同上

*8:同上(pp.17-18)

*9:のら企画編『ヤシャンボー 焼津市南部地区民俗誌』焼津市南部土地区画整理組合、1993年、pp.45-63「大井川平野のボタ」による。

*10:私が確認できた「墓」の字を用いる八兵衛碑は以下の8ヶ所。島田市大草御仮屋落合野田細島藤枝市瀬戸新屋小石川町焼津市五ケ堀之内

*11:焼津市総務部市史編さん室(2006年、p.61)

*12:同上(p.55)

*13:焼津市立大富小学校編『大富のむかし』1979年、巻頭掲載「静岡県志太郡大富村全略図」による。