山八つ谷九つ身は一つ我が行く末は柊の里

やまがやつ、たにがここのつ、みわひとつ、わがゆくすえわ、ひいらぎのさと

「山が八つ、谷が九つ、身は一つ、我が行く末は柊の里」

川中島八兵衛御詠歌二番の歌詞であり、お札にも書かれるこの文句。八兵衛の御利益のあらたかさを讃えるものである御詠歌のなかで、二番の歌詞だけが異色というか、どういう意味があるのかはっきりしません。いったい誰かどういう理由でどこの柊の里へ行くのでしょうか。

この文句は紙に書いて家の戸口に貼るとか、三回唱えるとかすると、疫病除けになるともいわれていたそうです*1。こうした扱いをみるに、意味のある文章というよりは、一種の呪文のようなものだったのかなという感じがします。

で、山が八つとか柊の里とかなんだろうということですが、これについては現在までのところ以下のような説が唱えられてきました。

*1:大房暁『山西の特殊信仰』(西駿曹洞宗史)久遠山成道寺、1961年、p.21

続きを読む

川中島八兵衛参考文献リスト(「志太の石碑・石仏めぐり」更新2019年9月26日分)

20190926213630

参考文献リストというか、川中島八兵衛に関して一文字でもなんか書いてあったらとにかくメモっておくリストを更新しました。ついでに今後の利便性のためGoogleスプレッドシートに移行しました。

たぶんGoogleアカウント持ってなくても閲覧、ダウンロードできると思います。不具合があれば教えてください。ダウンロードしたファイルはご自由にお使いください。

続きを読む

志太平野の戦と山城のこと

8日の土曜日のことなんだけど、焼津市歴史民俗資料館の公開講座志太平野の戦と山城」を聴きに行ってきたよー。講師は焼津市史編集員をつとめられた河合修先生、小川城の調査などにも関わられた方だ。

今回の講座の内容は、駿河国における室町時代から戦国時代にかけての山城について。1時間半くらいだったか、濃いお話でとても楽しかった。

そのなかでも特に興味深く思ったのが、駿府界隈は武田が侵攻してくるまでは比較的平穏だったので山城が発達しなかったって話。

室町時代以降の駿河国の歴史の流れを大雑把にいえば、今川による支配の確立からやがて衰退へ、松平の離反と武田の侵攻、そして徳川と武田の勢力争いへってな感じである。

で、今川が元気だったころの戦って、だいたい遠くのほうで戦ってる。たとえば川根本町の徳山城とか静岡市の安倍奥のほうとか、あるいは幕府の命を受けて関東へ出向くとか。この時代、志太平野では目立った戦がなかった。例外は藤枝市葉梨地区を舞台とする今川家のお家騒動、花倉の乱くらいか。

城とは戦争のための施設なのであって、戦が少なかった志太平野では本格的な山城が築かれなかった。堀切は飛び越えられるほどに浅く、曲輪がない城もあり、それらは少なくともそこに籠ってむっちゃ頑張って戦おうって感じはない。これら微弱な堀切や土塁は城の範囲を示すものであって、敵を防ぐことはそもそも意識されてなかったかもしれない。ってなお話だった。

うちの近所の城址ってどれも痕跡がはっきりしなくて、ミカン畑とか造成したときにならされちゃったのかしらーと思ってたのだが、この説が正しいならそもそも最初から地味だったかもしれないのだな。とすると、その地味な痕跡が現在に残ってるって逆にすごい。気候が良くなったらまた見てこよーっと思いました。

そういえば歴史民俗資料館では秋から城址に関連する展示やるって言ってた。そっちも楽しみねー

花沢城址

関連リンク:焼津市/焼津市歴史民俗資料館

神社は意外と引っ越してるし住んでる神様も変わってる

地域によってだいぶ差があるだろうなーと思うので静岡県中部限定の話として聞いてほしいんだけど、神社って昔から今の場所にあったとはかぎらないし、名前が変えられてたりもするし、祀っている神様すらも昔とは違うってこともわりとありがちなんだよ。

焼津神社の正月2006

続きを読む

小石川の桜並木の花の下

焼津駅の南側を小石川って川が流れているんだけど、そこの桜並木の話をするよ。

小石川の水門と桜並木

小石川は現在は大井川用水の一部となっており、藤枝市末広の柳久保頭首工で栃山川から分かれ、東海道本線におおむね沿って東進し、焼津駅南で焼津港へと注ぎ込む。長年、田畑に用水を運んできた本河川は、現在では市街地に降った雨水の受け入れ先としても重要な役割を担っている。

まぁそんなことはどうでもよくて、すでにシーズン過ぎてしまった桜の話だ。

焼津市内では、小石川沿いにずっと桜並木が続いている。特に焼津西小学校前の500mほどの区間は並木の下に遊歩道が敷かれていて、花の時期になると散策に訪れる人で賑わう。地元ではちょっと知られた桜の名所だ。

続きを読む

非常板って知ってる?

非常板(ひじょうばん)とは、金属板で作った簡易半鐘のようなもので、災害や事件・事故が発生したときに叩いて鳴らすもの。ご近所への注意喚起に使うのだ。

非常板@高州小学校前

設置場所は、川沿いなど注意喚起が必要な場所や、地区の集会所や神社のような人の集まる場所など。本物の半鐘のように火の見櫓の上にあるのではなく、道端の人の手が届きやすい場所に吊るされていることが多い。

自分の行動範囲ではわりとよく見かけるもので、どこにでもあるものだと思っていた。ところが、この非常板、ググったかぎりでは、静岡県島田市藤枝市焼津市の3市、すなわち志太地区にしか存在しないらしい。

少なくとも、「非常板」という名前でググって引っかかるのは志太地区に設置されたものだけ。「半鐘 金属板」とかでも検索してみたけど、今のところ類似品は見つかっていない。*1

自分にとっては日常的に当たり前に見かけるものだったのだ。まさか非常板がそんなレアなものだとは思わなかったよ。びっくりだ。

さてしかし、この非常板、どなたが考案したものであろうか。よく考えたら、誰が設置して誰が管理しているのかも、まったく知らなかった。

板の形が地域ごとに違い、たとえば焼津市のものは角を丸くした四角形、藤枝市岡部町のものは円形になっている。形状が異なるということは、製作者も異なるのではなかろうか。

焼津市内では、非常板本体に焼津ライオンズクラブが配布したものである旨が書かれたものが多い。岡部町では、昭和63年(1988年)に火の見櫓の代替品として作られたのだという*2。とりあえずライオンズクラブに問い合わせのお手紙出してみようかなぁ。そのうち気が向いたらやってみよう。

寺院などでも合図を送るために板状の鳴り物を用いることがある。板木(ばんぎ)という木製のものだ。この板木は江戸時代、町火消しの火の見櫓にも設置されていた*3。非常板の先祖ともいえそうな存在だが、はたして関係あるのかどうか。

なお、自分は非常板の音を聴いたことがない。なにしろ変事を告げるものなのだから、うかつに鳴らすわけにはいかないが、いったいどんな音が響くのだろう。

うちの近所の非常板は錆び切ったまま放置されているものが多く、今後は徐々に数を減らしていくのではないかと思われる。それ自体が価値ある文化財というわけではないし、残すべきものとも思わないが、非常板がある風景は記録しておきたいなぁと思ったのだった。

*1:ネットに情報が上がっていないだけで実は全国に存在する可能性はありえる。よそで見かけたよって方はお知らせくださると嬉しい。

*2:ジモテン|とびっきり!しずおか|番組|静岡あさひテレビ (2016年3月14日紹介 藤枝市岡部町・岡部地区)

*3:火の見櫓とは (尾張の火の見櫓)