江南信國が撮影した静岡の茶畑はどこにあったのか

たぶん静岡市の谷津山の南側斜面だろうと思うんですよ。今は宅地化されてる春日町3丁目10~19あたりだったのではないかと。

えーと、これら3枚の写真の話です。

MLS-5-J-045
MLS-5-J-046
MLS-5-J-047

Enami - Tea Production | Flicker

幕末生まれの写真家、江南信國(1859年~1929年)による、静岡で茶が生産されるところを撮影した19枚の写真。数年前に「20世紀初頭に日本の茶摘みの様子を撮影した貴重なカラー写真いろいろ - DNA」で見て知った。

その中から、山の上の茶畑で茶摘み娘を撮影した3枚。ここに写る風景、この山の形、なんか見たおぼえがあるなと、どこなのかなと気になり続けて幾星霜。やっと確認する気を起こしたのだった。

まず、とりあえず、3枚とも同じ日に同じ場所で撮影されたらしく思われる。3枚とも写っている人物の服装が同じ。同じ茶摘み娘が写っている。女子を山の中そんなあっちこっち連れ回せないだろうから、たぶんすべて同じ茶畑での撮影だろう。*1 *2

茶畑の乗った山の麓は水田だが、少し離れると軒を連ねる人家がある。工場の煙突らしきものも見えるし、けっこう大きな町のようだ。戦前の静岡県下の大きな町というと、静岡市浜松市沼津市清水市など。

なんとなくだが、写真に見える山の形や位置関係から、静岡市っぽさを感じる。特に、遠景に写る山の形が、静岡市西端の山々を東側から見たところっぽい。しかし、これらは白黒写真に色を塗ったものであり、着色時に山の輪郭など厳密になぞってはいなさそうな気もする。

写真を個別に見ていくと、3枚目の MLS-5-J-047 では、茶畑の山の向かいにも丘が写っている。この丘の左端のちょこっと飛び出た部分は、背後にあるもう一つの小さな丘のようだ。どちらも茶畑からそう遠く離れた場所ではなさそう。

静岡市内で大小二つの丘が並んでいるところというと、谷津山と愛宕霊園の観音山か、谷津山の南にある八幡山と有東山か。丘の大きさからすると谷津山ではなさそう。谷津山はもっとでかい。むしろ、丘を八幡山と有東山とすれば、谷津山の南斜面からならちょうどこんなふうに見えそうではないか。

そして、写真左端、この二つの丘が重なってるところの手前に、二階建ての大きな建物が見える。茶色?黄色?っぽい色で塗られている。これは安倍郡立安倍農学校ではないか。曲金の、今は静岡地方気象台がある場所にあった。後の県立静岡農業高校。同校HP>学校案内>沿革の、「1 学校の沿革」内の一番上の写真が、その安倍郡立安倍農学校。

次に、1枚目の MLS-5-J-045 と 2枚目の MLS-5-J-046、どちらもほとんど同じ場所を同じ方角から撮影しており、右手から下りてくる尾根の先に大きな煙突が目に付く。この煙突は、音羽町音羽公園付近にあった静岡電力の火力発電所ではないか。田中貢太郎『静岡遊行記』p.300 にその写真が掲載されている。*3

それと、MLS-5-J-046 真ん中、伸びた尾根の土がむき出しになった崩壊斜面、これは旧地形図で「園公水清」の字に半分隠されている土崩記号の場所ではないか。崩壊斜面の麓から左に少し離れたところに見える大きな屋根は安立寺っぽい。

これが推測どおり谷津山だとしたら、煙突が火力発電所のものだとしたら、煙突の手前に伸びる尾根の先端には清水寺があるはず。で、これらがこのように見える場所はどこかといったら、春日町3丁目東側に張り出た谷津山の尾根であろうと。

とりあえずお手軽にGoogleマップで現地の風景を眺めてみよう。八幡山方面音羽町方面。だいぶいいかんじでは?ちなみに八幡山方面、農校跡地の静岡地方気象台は静清リハビリテーション病院の後ろにあって、左側に頭がちょこっとだけ見えている。

実地で確認できたらいいのだが、推定地である尾根はほとんど宅地化されてしまっているし、谷津山は木がもしゃもしゃに茂って眺望が得られる場所は限られているし、かなりきびしそう。一応、住宅地の上の斜面にハイキングルートが通ってるらしいので、真冬なら少しは木に隙間ができるかしら。

というか、この写真がもし本当に谷津山だとしたら、本当に昔は畑だらけだったのだな。昔、護国神社をつくった時、畑だらけの山を鎮守の森に再生しましょうというんで各家から木を寄贈したという話を、あのあたりお住まいの人から聞いたことがある。それから70幾年だかを経て、人の手で植えたものがこのようにもっしゃもしゃに繁茂している。話をしてくれた人は、もうどれが自分の家から出した木かわからないと言っていたが、こう茂る前はちゃんとわかっていたということだろうか。それもすごい。

ところで、安倍郡立安倍農学校は大正3年12月7日に設立。静岡電力火力発電所大正13年11月18日に火入式を行ったとのこと。で、江南信國は昭和4年没。というわけで、3枚の写真の撮影場所が谷津山なら、撮影時期は大正末年~昭和初年あたりになるようだ。

てなことをだらだらと述べてきたが、実はすでにどなたかが場所を特定しているんじゃないのという気がしている。というかそのつもりでググったのだが情報を見つけられなかった。どなたかご存じでしたら教えてください。

それと、お浅間さんのところの静岡市文化財資料館で「カメラが写した静岡市130年」が24日まで開催中なのを思い出した。谷津山の写真あるかしら。とりあえず見てこよう。

*1:本文とは関係ないが、ここには掲載しなかった同じアルバム内の最初の1枚 MLS-5-J-044 は、同じように茶畑に茶摘み娘が立つ写真だが、これは他3枚とは別の茶畑っぽく思う。茶の木の植え方仕立て方が全然違うし、山の上のようには見えないし。

*2:さらに余談ですが、現在の茶畑は茶の木をつなげて長い畝状に整列させるのが一般的ですが、古い時代には株を一つ一つ離して植えていたと聞いたことがあります。そもそも長い畝をつくるのは機械作業を効率的に行うためだとか。他3枚も畝が短く不規則に並んでる感じですが、MLS-5-J-044 にいたっては株がめっちゃ丸々してます。もしかして他3枚より古い時代だったり?それとも一株ずつ大切に世話をするような高級茶だったとか?どうなんでしょうか。

*3:日本電気協会中部支部「中部のエネルギーを築いた人々 熊沢一衛」p.2 では、この発電所を静岡電力の「相生町火力」としている。発電所の位置のソースは「音羽町駅 - Wikipedia」。また、「備忘録に代えて:駿府公園で見かけた銅像・記念碑」コメント欄に発電所があった頃の思い出を投稿されている方がいる(Posted by あっくんじいちゃん at 2011年08月14日 15:07)。