四郎兵衛地蔵メモ

藤枝市稲川の四郎兵衛地蔵

藤枝市稲川の瀬戸川沿い、旧国1(現県道381)瀬戸川橋のたもとで川沿いの道路を上流側に少し進んだところに、大量の石仏をおさめた小さなお堂があります。おさめられているのは、地蔵や馬頭観音、四角い石塔、五輪塔のようなもの、そして川中島八兵衛など。

たぶん、元はあちこちに点在していた石仏を、河川や道路の整備の際にここに集めたのかなーという雰囲気。前に見に行ったときにはお供えの花も美しく、よくお世話されている様子がうかがえました。

谷澤靖策*1によれば、このお地蔵さんは「四郎兵衛地蔵」というそうな。てっきり四郎兵衛さんを祀った地蔵があるのかと思ったのですが、現地を見るかぎりではどれがそれかわからない。それと、四郎兵衛さんとはどなたでしょう。

旧地形図を見ると、かつてこのあたりに「四郎兵衛」という小地名があったことがわかります*2。ということは、四郎兵衛地蔵とは、四郎兵衛地区で祀っている地蔵ということ?四郎兵衛さんを祀っているわけではないのでしょうか?

地名になっているということは、四郎兵衛さんはこのあたりを開発なさった方っぽいですが、もしかしたらなんらかの伝説があったりするのかもしれない。今度図書館行った時にもうちょい調べてみましょう。

*1:谷澤靖策『田中城の町 西益津史跡巡り ―過去・現在・未来―』(谷澤靖策スケッチ集)2019年、p.17

*2:静岡県地理情報システム 旧版地形図

山八つ谷九つ身は一つ我が行く末は柊の里

やまがやつ、たにがここのつ、みわひとつ、わがゆくすえわ、ひいらぎのさと

「山が八つ、谷が九つ、身は一つ、我が行く末は柊の里」

川中島八兵衛御詠歌二番の歌詞であり、お札にも書かれるこの文句。八兵衛の御利益のあらたかさを讃えるものである御詠歌のなかで、二番の歌詞だけが異色というか、どういう意味があるのかはっきりしません。いったい誰かどういう理由でどこの柊の里へ行くのでしょうか。

この文句は紙に書いて家の戸口に貼るとか、三回唱えるとかすると、疫病除けになるともいわれていたそうです*1。こうした扱いをみるに、意味のある文章というよりは、一種の呪文のようなものだったのかなという感じがします。

で、山が八つとか柊の里とかなんだろうということですが、これについては現在までのところ以下のような説が唱えられてきました。

*1:大房暁『山西の特殊信仰』(西駿曹洞宗史)久遠山成道寺、1961年、p.21

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川中島八兵衛参考文献リスト(「志太の石碑・石仏めぐり」更新2019年9月26日分)

20190926213630

参考文献リストというか、川中島八兵衛に関して一文字でもなんか書いてあったらとにかくメモっておくリストを更新しました。ついでに今後の利便性のためGoogleスプレッドシートに移行しました。

たぶんGoogleアカウント持ってなくても閲覧、ダウンロードできると思います。不具合があれば教えてください。ダウンロードしたファイルはご自由にお使いください。

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天皇神社と御所松

ついこのあいだ天皇陛下が御即位されたわけですが、そういえば近所に天皇にまつわるスポットがあったなということで、行ってきたという日記です。

天皇神社天皇神社拝殿
天皇神社(静岡県焼津市

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読書感想文を書いたぞ

仕事で書類を作らねばならぬのが嫌すぎて読書感想文を書くことにしました。

この夏は久々に本をよく読みました。身体を壊して外出できなかったからだ。
それと、どうやらストレスが溜まると物語を摂取したくなるらしい。
その状態を超えて更なる負荷を受けると糖分の過剰摂取が始まり結果たいそうデブったわけですが、それはともかくとして読書感想文だ。

  • アキヨシ カズタカ 『かたるし ~ののかの国東不思議探訪~』
  • 長代ルージュ 『イヴとイヴ』
  • 奥瀬サキ 『低俗霊狩り 【完全版】』全5巻
  • 宇佐美まこと 『骨を弔う』
  • 根深 誠 『イエティ ヒマラヤ最後の謎〝雪男〟の真実』
  • 坂口安吾桜の森の満開の下』 『夜長姫と耳男』
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志太平野の戦と山城のこと

8日の土曜日のことなんだけど、焼津市歴史民俗資料館の公開講座志太平野の戦と山城」を聴きに行ってきたよー。講師は焼津市史編集員をつとめられた河合修先生、小川城の調査などにも関わられた方だ。

今回の講座の内容は、駿河国における室町時代から戦国時代にかけての山城について。1時間半くらいだったか、濃いお話でとても楽しかった。

そのなかでも特に興味深く思ったのが、駿府界隈は武田が侵攻してくるまでは比較的平穏だったので山城が発達しなかったって話。

室町時代以降の駿河国の歴史の流れを大雑把にいえば、今川による支配の確立からやがて衰退へ、松平の離反と武田の侵攻、そして徳川と武田の勢力争いへってな感じである。

で、今川が元気だったころの戦って、だいたい遠くのほうで戦ってる。たとえば川根本町の徳山城とか静岡市の安倍奥のほうとか、あるいは幕府の命を受けて関東へ出向くとか。この時代、志太平野では目立った戦がなかった。例外は藤枝市葉梨地区を舞台とする今川家のお家騒動、花倉の乱くらいか。

城とは戦争のための施設なのであって、戦が少なかった志太平野では本格的な山城が築かれなかった。堀切は飛び越えられるほどに浅く、曲輪がない城もあり、それらは少なくともそこに籠ってむっちゃ頑張って戦おうって感じはない。これら微弱な堀切や土塁は城の範囲を示すものであって、敵を防ぐことはそもそも意識されてなかったかもしれない。ってなお話だった。

うちの近所の城址ってどれも痕跡がはっきりしなくて、ミカン畑とか造成したときにならされちゃったのかしらーと思ってたのだが、この説が正しいならそもそも最初から地味だったかもしれないのだな。とすると、その地味な痕跡が現在に残ってるって逆にすごい。気候が良くなったらまた見てこよーっと思いました。

そういえば歴史民俗資料館では秋から城址に関連する展示やるって言ってた。そっちも楽しみねー

花沢城址

関連リンク:焼津市/焼津市歴史民俗資料館